○帝都
少女は目を覚ました。
鼻に定期的に水滴が垂れている。
それが生理的に嫌な気分がしたからだろう。ゆっくりと寝かされている場所から上半身を起こす。
牢獄のような冷たいコンクリートで出来た部屋に事務用の机が一つ。だが暖房がかけられているようで暖かい。
布団のつもりか、薄いシーツが体に掛かっていたのでそれを荒々しく振り払うと机に向かった。自分の帽子が置いてあるからだ。
少女はそれを被ると何度かキュッキュッとずらし帽子の角度を気にする。そして左目に巻かれた包帯の位置を正して軍服一式揃うと、小さく溜息を吐いた。
一箇所しか無いドアのノブがガチャッと鳴ると少女は構えた。
ドアを開けて入ってきたのは二十代前半の男性で、見るからに華奢な体つきをしていたので少女は構えを解いた。
「あ、気がついた? 雨の中倒れてたからちょっと連れてきちゃった。特に風邪ひいてるとか無い? 暖房かけといたんだけど」
「ここは帝都か?」
少女は男の言葉を無視するように言った。
「帝都? 帝都……ああ、東京の事か。そう。帝都だよ」
「そうか」
少女はそう言うと腹部を押さえた。
ギュルルと漫画のように音がする。空腹で倒れたのかもしれないなと男は思った。
「どこか痛いとか、お腹空いたとかある?」
少女は懐疑的な顔で男を見る。
「空腹ではあるが……先ず此処は何処で君は誰だ」
「あー、ここは……拳闘場だと思ってくれたらいいよ。俺は経理の中島 伊里斗(なかしま いりと)って言うんだ」
「僕は陸山 五色(りくやま ごしき)だ。あまり記憶が無いが……どうやら空腹で倒れたようだ。
何かあれば有り難いのだが」
中島は彼女が何故、軍服を着ているのか気になったが自分の昼食用のコンビニ弁当があるのでそれを渡すと
あっという間に五色は平らげた。
「すまない。僕は帝都にある施設から逃げてきたのだが食料の調達だけはどうにもならなかった。感謝する。ところで……君に甘えてばかりで悪いのだが仕事は無いか?」
中島はしばらく考えた。喋り方が古風だ。東京の事を帝都と呼ぶのもおかしい。
問題は「施設から逃げてきた」という事だ。どういう事だろう?
「別にひどい扱いを受けていたのでは無い。特殊な体なので珍しがって調査されていただけだ。退屈が嫌だっただけだ」
そういってほんの少し笑顔を浮かべて続ける。
「拳闘とは言っても違法な物だろう。何となく君から出る血生臭い雰囲気を僕は感じる」
「あ、いや、まいったな……そうなんだよ」
中島は嘘を付いてもどうせ建物は出る時に覚えられる。どうせバレるなと思い正直に言った。
「では僕を選手にしてくれたまへ。客を沸かせる自身はある」
五色は余裕があるかのように笑った。中島はこのじめっとした陰湿な雰囲気の仕事場にうんざりしていたので
辞めようと思っていたが、ある思い付きが有った。
「それじゃ試合してみて上手くいったら俺をマネージャーにしてくれないか?」
「マネージャー? 聞いたことがあるが、要するに雇い主という事かい?」
「まあそういった所。で……試合は上半身裸の女子ボクシングだけどそこは大丈夫かい?」
それを聞いて五色は頬を紅く染めた。
「はっ、裸か……やはり違法性が高いというか……軍人のやる仕事では無い。だが生きていくにはどうしても金がかかる」
「軍人かどうかは知らないけど……じゃあとりあえずひとつだけ試合やってみてくれるかい?
負けてもお金は入るから、それでやめてもいい。それで……左目の怪我? 片目で何とかなるかい?」
「怪我では無い。帝都の……いや、片目で問題無いんだ」
五色は頷いて上の軍服を脱いだ。BカップとCカップの間位の胸が露になる。ブラジャーは元からしていなかった。
「僕はこのズボンで闘いたいのだが、そこはいいかい?」
「まあその辺は曖昧だからいいよ。乱入という形で出てもらうから、えーと次の試合は……三十分後か。試合用具一式揃えるから控え室へ行こう」
中島は少女の妙な部分はさて置き、ひょっとすると自分も晴れ舞台に出れるかもしれないと思った。仮に彼女が強ければマネージャー兼セコンドでこの界隈で有名になれるかもしれない。何故かそういった希望の方が大きかった。
○ 初試合は
五色と同じように対戦相手は上半身裸だ、だからといって恥ずかしくない訳では無いが、五色は少し気持ちが楽になった。ここでは胸を出すのが当たり前という、慣れれば済む事だなと感じる。
「健闘を称え合おう。君は何と言う名だい?」
五色が右グローブを差し出すと即座に相手はそれを弾いた。
客がそれに対して沸く。
「そうか。アピールして盛り上げるのか。君はこなれているようだ」
「リングの上ではアレビトって名乗ってる。とりあえず馴れ馴れしいのは簡便してね」
そう言うとアレビトは肩より少し下へ伸びた黒髪をサッとグローブで撫でると自分のコーナーへモデルのように歩いていった。
「こっちこっち」
中島は青コーナーから五色を呼んだので少し駆け足で向かった。
「そういえばゴングが鳴るまでコーナーという所で待つんだったな。そして……相手は赤コーナーという事は格が上という事で良いんだな?」
中島は頷くと白いマウスピースを突き出した。
「それも知っている。咥えれば良いんだな」
鳴れたように五色はマウスピースを咥えた。
「呼び捨てで言うけど五色、俺の指示を聞いてくれたらある程度のレベルの試合が出来るからちゃんと聞いててね」
五色は頷かなかった。自分なりの戦い方があるのか、少し不機嫌そうな顔をする。
そこでゴングが鳴った。
お互いに中央へ走り出し、拳の届く距離に達する。先制はアレビトのジャブだった。
ダメージには大して繋がらないが目がチカチカと星が瞬くようになり、少し意識がクラッとした。
そこへアレビトはジャブを繋いだ。
包帯を巻いている方、右の拳を使ってのジャブだ。
バキッ!
大きな音がする。アレビトも相当な手応えを感じた。ひょっとすると一ラウンドKOになるかもしれないと感じた。
五色はフラッとよろけて薄く笑った。
「君からの洗礼か。 いや、地下女子ボクシングとやらからの洗礼だろうな」
そう話す五色の口の端から血が伝って喉から胸へと降りていく。
アレビトは思ったより撃たれ強い五色には特に驚かなかった。色々な相手と戦ってきてこのような場面はいくらでもある。当然一ラウンドKOも有ったので期待はしていたが。
(まず怯まずに技を繋げる事だ!)
アレビトは左のフックを打った。
バキィッ!
今度も確かな手応えがした。五色の顔が弾き飛ばされるように浮き上がり唾液の塊が吐き出され、それがマットの上に落ちて散ると同時に五色の体は背中からマットに沈んだ。
(経験の差が絶対的に開いているハズ。こいつが起き上がるのも想定して常に頭を動かせろ!)
アレビトはそう考え、レフリーがカウントを数え始めてもよりタイトに自分の心を持っていく。
五色はカウント6で立ち上がった。
「君は凄いな、僕は……げほっ! げほっ!」
咽た五色の口から溜まった血が吐き出された。
最初の右フックを食らった左頬が早くも痣になり腫れている。
(ふむ。やはり包帯のある左目……つまり右フックが効果的か)
アレビトは冷静に判断すると、拳の先が見えないように大振りの右フックを打った。
包帯をしていては見えない。
「五色!右だ!」中島は叫んだが無意味だった。
ゴキッ!
アレビトの右フックが五色のアゴをとらえた。
脳震盪を起こしてもおかしくはない程だ。
(そんな包帯なんか巻いてるから悪いんじゃない! ダウンするんだろうけど追撃させてもらう!)
バキャッ!
全く学習能力が無いのかと観客はイライラしていた。アレビトの右フックが又ヒットしたからだ。
「ぶぅっ!」
顔の左側が腫れ上がった顔で五色は唾液まじりの――ほとんどが血の液体を噴出した。
ビチャビチャッと血がマットの上へ飛び散る。
それでも倒れないのでアレビトは左右のフックを少し力の加減を減らして滅多打ちする。
五色が鼻血と口から血を打たれる度に散らしているが、ダウンはしない。
そのうち、ゴングが鳴った。
五色が青コーナーへ戻ると中島が頭を抱えていた。
「そこの椅子に座って。拳闘に自信あるんじゃなかったのか? ボコボコじゃないか」
「こうやって盛り上げるものでは無いのか?」
五色はそう言いながら椅子に座った。
「とりあえずマウスピースを洗わないといけないから、ほらこのバケツに出して」
五色はうろたえた。
「じっ、女性だぞ私は! つまりその……血は良いが唾液が大量に付着している口の中の汚いモノを出すのか? 遠慮しておく」
「決まりごとだよ。じかに指を突っ込んで取ってもいいんだけど?」
「わ、わかった。わかったわかった!」
べぇっ
声か喉の鳴る音かは分からない。ただバケツには唾液と大量の血に塗れたマウスピースがびちゃりと吐き出され、粘液を撒き散らした。
「み、見るなっ! 見るなっ! やっぱり汚いじゃないか。僕の唾液の匂いまでするじゃないか!
自分で洗うからいいっ!」
中島は黙って無視をしてマウスピースを洗い始めた。
「五色、とりあえず次のラウンドで終わりそうだからパンチ一発程度は打っとけ」
溜息まじりに中島は言ったが、五色はキョトンとした顔をしている。
「だから盛り上げるとはこういう事だろう? 次は逆転する予定なのだが?」
「はぁっ? パンチ打てるなら最初から打たないと。 盛り上げるにしてもやられすぎだし左目にハンデ有るから無理だろ?」
ゴングが鳴った。
マウスピースを咥えて右グローブで位置を整えながら腫れ上がった顔で五色は言った。
「帝都の科学力を舐めてもらっては困るな」
そしてうっすら笑った。